2012年06月05日
場所とその中にいる人の相関関係

今回は、精神的な育ちのよさ、親のしつけ、によって、その子供の人生が、180度変わってしまうことへの、警鐘について、書くことにしました。
音楽と結婚してしまった、独身の私には、そんなことを指摘する資格はない、という、常識に反論するためです。
確かに、愛する人と結ばれ、子供を作り、家族を作ることは、独身で55歳まで生きてきた私は、生涯、そのような幸せに浸ることは、絶対に出来ませんので、とてもうらやましいな、と感じることもあります。
しかし、「結婚は勢いだ」と一般的に言われていることは、作曲の際に、浮かんだモティーフを大切にして、それを生かせる楽器編成で作曲するプロセスは、『勢い』なので、自分のオリジナル作品を作ることと、結婚して自分の子供を作ることと、全く変わらないと、私は痛感しています。
私にとって、自分の作曲した作品は、全て、私自身の子供なのです。
それを酷評されたら、怒ります。が、それは、自分の子供がいじめられた時に、モンスターペアレントになってしまうことと、さして変わらないことなのです。
そして、一番の相違点は、自分の作曲作品、という、自分の子供達は、もしかしたら、永遠の生命を持つことができるかもしれない、という点が、子供を作ることとは、全然、違っていることなのです。
子供を作って、その子供達が、まっとうな人生を歩むことが出来るように、しつけることに相当することが、作曲においては、十分な推敲を行うことなのです。
私はそう思って作曲しています。もちろん、周囲のリクエストから、ついでにやっている自作自演、というものを提供することは、聴く人にとっては、最高のアミューズメントだと思いますので、要望があればやっていますが、それは、私のライフワークではないのです。

幸いにも、うどんの故郷の、現在私が住んでいる、香川県には、最近、たくさんの、音楽大好きなオーナーが、ライブ喫茶、というものを作っていて、コラボ仲間の若い人達の紹介で、いろいろ、出演するようにしていますし、高齢者のいらっしゃる、老健施設での演奏活動も、もうすぐ始まる予定です。
クラシックの世界では、演奏の機会はヨーロッパの状況を提供しなければいけない、と確信している諸先輩方がいらっしゃいます。残響2秒以上の完璧なコンサートホールで、私は、東京にいた頃、いろいろな室内楽を演奏した経験がありますし、また、そういうスペースで客席で聞いたこともあります。確かに素晴らしい経験でした。
しかし、作曲や、和声学や対位法に裏づけされたアレンジやコラボ作品を提供することは、聴衆の皆様にとっては、『感動』という素晴らしいものを提供できるのですから、多少の残響などは、無視してもいいと、私は思っています。
さて、日本におけるクラシック音楽の閉鎖性の最大の理由は、作曲者、アレンジャーや演奏者の、自己顕示欲なのです。
「私は、これくらい素晴らしい演奏ができるんだぞ。」「私は、こんなに演奏のメカニックがあるんだぞ。」「私は、こんなに対位法的なアレンジができるんだぞ。」などという、実に下らない、音楽性とは無縁の、自己満足を充足させることが目的で演奏活動をしている人達は、それを、演奏に対して支払われるギャランティー、というお金の金額と短絡的に結びつけて、やっているのです。
このようなことは、大変に不毛な活動だと、私は、断言します。これは、J.S.バッハの「マタイ受難曲」が最高傑作である、ということと同等の、絶対的な公理なのです。
さて、最近の、物騒な首都圏での事件を拝見していて、私は、本当に、痛感しています。
「必要以上のお金は、人間性を崩壊させます。」
「必要以上のお金による他人の支配は、一過性のものです。」
「必要以上の常識の乱用は、世の中の迷惑です。」
掲載写真は、順に、オウム真理教の中心メンバーの一人、菊地愛子が捕まったときに住んでいた、相模原市の住居場所、子煩悩な女将さんが経営している、高松の「名もないうどん屋」の建物、私がコラボ演奏をしている、高松市のライブ喫茶「Kusaka」、です。
この写真を見て、全てを判断する人は、人間性が欠落していますね。だって、視覚だけで全てが判断できるわけないからです。味覚も、聴覚も動員しないと、正しい判断は出来ないからです。

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Posted by 岡田克彦 at 06:23│Comments(0)
│作曲