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Posted by あしたさぬき.JP at

2014年09月03日

胆石を完治した思い出

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思い起こして見ると、私のこれまでの57年間の人生で、いろいろ困った時に、ライフワークとして続けていた、作曲、室内楽演奏を中心にしたピアノ演奏を中心にした音楽活動から得た人脈に助けられました。



その中でも、一番助けられたのは、1986年〔29歳当時〕、住友信託銀行新宿支店法人営業室で非課税法人の新規開拓を担当していた当時、クライアントの接待で飲みすぎたアルコールのせいで、胆石になった時でした。



会社の業務医の北里大学出身の外科医の若者は、「即刻手術です。」とおっしゃったのですが、私は、この若い医師の一辺倒な検査の仕方、触診をしなかったことが気に入らなかったので、拒否して、私が会長をしていた「日本アマチュア演奏家協会・ピアノと遊ぶ会」会員員で、私が上京して、早稲田大学政経学部2年生の始めに初めて作ったピアノ演奏サークル『ショパン愛好会』創設以来親交のあった、東京医科大学を卒業後大学病院にいた、横山聡君に相談しました。



すると彼は、こう言ったのです。



「長男の僕が言うのもおかしいけど、北里に対抗するのなら、親父が一番いいと思うから紹介するよ。長男の僕が言うのも変だけどさ、親父は名医だと思う。東大医学部卒業後、東京女子医大内科部長をした後、神田で開業していて、今、東京都医師会会長もしているし、親父の弟子の大井先生は、昭和天皇の主治医だし、日本初の心臓移植手術に立ち会った内科医として有名なので、朝日新聞の健康相談室も執筆しているから、紹介するよ。親父は、チェロの名手なので、そのうち、岡田君が、サン=サーンスの白鳥でも伴奏してくれたら、お礼なんていらないよ。」



そして紹介状を書いてくれて、電話アポで私が、神田の横山クリニック」にゆく日程まで決めてくれたので、私は、その日、東小金井の住友信託銀行独身寮に帰宅して、「チェロとピアノのデュオ」の作品を作曲して、その作品を手土産として横山君のお父さんに献呈する事にして、「横山内科クリニック」に行きました。



さすがは名医でした。横山先生は、問診のあと、触診で、胆石ではなく胆嚢炎であること、石ができていたとしても12個の小さなものなので手術の必要はない、と断言しました。エコー写真を撮って、これを、北里大学出身の若い外科医に送付し、誤診である事を認めるよう、東京都医師会会長として勧告したのです。



こうして、北里大学医学部から、住友信託銀行人事部に連絡が来て、住友信託銀行人事部から新宿支店長に対して、「岡田君の胆のう炎の治療は、当社の業務医の北里では出来ないので、岡田君の持つ、音楽ルートの人脈に頼りなさい。」との命令が来たので、新宿支店では大騒ぎになりましたが、本社人事部の言うことに逆らうことは出来ませんでした。横山先生は、田中角栄の御殿の向かいの目白の豪邸に住んでいましたが、そこから、お抱え運転手の運転する車に乗って、住友信託銀行新宿支店の私を訪ねて来店され、「岡田君が私のために作曲してくれた、チェロとピアノのデュオの作品の御礼です。少しですみません。」と言って、5億円のビッグをご入金下さったのでした。



またまた、支店長が大騒ぎしましたので、私は、断言しました。



「芸術作品の値段は、作者ではなく、買う人やそれを演奏したい人が決めるものですから、金額で騒ぐ必要はありませんよ。」



その後、横山先生の食事療養と漢方薬による治療は1年かかり、大変でしたが、本当に私は、北里の誤診に惑わされず助けてくださったのですから、5億円のビックなんてもので御礼を下さったので、とてもとても恐縮してしまいました。



私の全快祝いは。横山先生の軽井沢の別荘でやってとくれましたが、そこには、スタインウェイフルコンサートグランドピアノがありましたので、横山先生の4億円のチェロと私の新作を合奏したものでした。東京の金持ちと地方都市の金持ちの致命的な落差に、私は、腰を抜かしたものでした。



でも、横山先生は謙虚でしたね。「岡田君の作品を5億円なんて、金銭で評価してごめんね。」とおっしゃっていたので、私は、回答に窮しました。



パトロン、という軽薄な言葉が流行っていますが、横山先生は、私のパトロンではなく、最高の理解者なのです。



それだけに、最後に、横山先生が私に言った、次の言葉を、私はずっと守っています。



『アルコールが全部だめなのじゃないのです。ビールが一番ダメなのです。一番胆嚢に負担をかけるのはビールです。ビールだけは、死ぬまで一滴も飲んではなりません。それと、いいアルコールは、蒸留酒の、ブランデーと焼酎です。」



以来、私はこの言葉を守っています。ですから、ビールにプリン体が含まれているかどうかなんて、どうでもいいことなのですよ。ビールには一切興味がないのですから(笑)。





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Posted by 岡田克彦 at 02:08Comments(0)アーテイストとの出会い

2014年05月07日

久しぶりの栗林公園

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「えーーーっ、本当に、栗林公園へ行ったことがないの。」



私はびっくりしました。



昨日、うちに、コラボの練習に来た、山本君が、合わせの後、ポロッ、と、言ったのでした。



「栗林公園と、餡餅雑煮、がさしあたっての、ぼくの興味の対象です。」



さっそく一緒に出かけて、ご案内しました。



片原町の「エビスヤ」喫茶の餡餅雑煮は、正月前後だけでしたが、ライオン通りの「甘味茶屋 ぶどうの木」は、年中置いているのですが、昨日は祭日のためお休みでしたので、また、ということになりました。



が、栗林公園の南庭をいろいろ、ご案内しました。



麩を、コイにやったのですが、観光客がいっぱい来て麩を与えていたため、お腹いっぱいのようで、反応が悪かったですが、日暮亭、新日暮亭、梅林橋、きくげつ亭、桶滝、たいこ橋、吹上亭、飛来峰、こうぶしゃ、花園亭、等々、大体はご案内しました。



うどん県民の友人を、栗林公園にご案内したのは、私は生まれて初めてでしたので、とても新鮮な出来事でした。



愛媛県産まれ、善通寺市で育ち、今、坂出市に住んでいる彼に、栗林公園に来る機会がなかったことは、仕方ないですね。



さすがは、ミュージシャンです。私が母の追悼に作曲した、ピアノ組曲「記憶の底の栗林公園」OP.111 を聴いていた彼は、コイに麩をやるたびに、私が作曲した、この組曲の中の『麩にかぶりつく鯉』の音型のようにかぶりつく鯉に、喜んでいました。



久しぶりに、だいぶ長距離を歩いたので、私は、とても気持ちよく、うどんをたくさんいただき、熟睡できました。



あらかじめ言っていただければ、栗林公園そばの、「上原屋本店」の『きつねうどん』、「松下製麺所」の、うどんにラーメンをトッピングした『ハーフアンドハーフ』、「こころええやん」の『かき氷釜揚げうどん』、にもご案内できたのですが、いきなり言ってくるところが、山本君らしいですね。



彼が作詞した、ショパンの「別れの曲」は、素晴らしかったです。



ショパンの「別れの曲」は、ポーランド分割から逃れてパリに脱出したショパンが、ポーランド独立運動のリーダーだった、親友のティティウスに見送られたときの思い出で出来た曲なのです。安直な男女の恋愛の別れでは、こんないい曲が出来なかったことは自明の曲で、パリ到着後、ティティウスが殺されたことを知り、その怒りに任せて書いたのが、「革命のエチュード」、最後に別れたときの思い出で書いたのが「別れの曲」なので、この二つは、二部作なのです。



だから、この対照的な二つの作品は、ショパンの、OP.10のエチュード集に、一緒に入っているのです。



まあ、この程度のことは、クラシックピアニストは、みんな知っていることなのですけどね(笑)。



掲載写真は、順に、彼と栗林公園の日暮亭でとった写真、ちょっと休みに寄った「うどん市場・兵庫町店」の『冷たいかけうどん』、です。



ここのうどんは、コシの強いものではなく、もちもち系なので、ちょっと休憩時にベストなのですね。







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Posted by 岡田克彦 at 19:06Comments(0)アーテイストとの出会い

2014年01月05日

2014年を迎えて

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有島重武氏





年が明け、3ヶ日も終わりました。



年が明けて、何がめでたいのかな、って、東京にいた頃は、私は毎年思っていたのですが、たぶん、毎年毎年、長く生きたことを感謝していたのだろうな、と思う今日この頃です。



しかし、この考え方は、母の逝去を期に、変わりました。



高松の私の実家は、先祖代々、浄土真宗西本願寺派でしたので、母の生前からの希望通りに、親鸞聖人のそばの、大谷廟に分骨し、東京にいた頃購入した、横浜の日吉に購入した、墓地に納骨しました。



高松市の斎場の方の手違いで、骨壷は二つでいい、と言っていたのでしたが、三つも作ってしまったのでした。



で、私は困ったので、旦那寺の、仏生山の円光寺さんに相談したところ、仏壇の横に、遺骨を祭ってもいいとのことでしたので、今も、自宅に飾っています。



ところで、私は、附属高松中学校頃から、高松高校時代にかけて、歴史が大好きだったので、平安仏教や鎌倉仏教までいろいろな宗派の教えを勉強しました。



この中で、私が最初にオミットしたのは、禅宗系の、臨済宗や曹洞宗などでした。確かに、曹洞宗の永平寺にはお参りに行って、精進料理をいただきました。



が、坐禅を組むなどの、小乗仏教ならではの修行を毎日続けることは、日常的に無理な時代になろうとしていたので、教えはとても共感できましたが、実行できないものはどうしようもないと思いました。



ところで、浄土真宗西本願寺派は、昔から、高松の実家で信仰していたものなので、私自身の意思で信仰していたわけではありませんでした。



もちろん、蓮如聖人の「白骨の御文」などは、名文ですし、仏教の持つ、無常感を表出したものですから、私は、文学的に好きでした。



しかし、極楽浄土だけを祈り、生きているうちの善行を祈らない点だけが、私は納得できませんでした。



これを解消してくれたのが、日蓮の始めた「日蓮宗」でした。法華経(つまり、『妙法蓮華経』)の教えでした。



つまり、「日蓮宗」は、この世をイキイキと生きるための仏教、だったのです。



弘法大師が始めた、平安仏教の「真言宗」も、現世を考えたものでしたが、「現世利益」〔げんぜりやく〕はあくまでも、自分の利益を守るというものでしたから、自分の生き方を考えるものではなかったのです。



お金などの利益は、正しい生き方をしていれば、後から自然発生するものなのです。最初から、お金が欲しい、などという、下劣な煩悩に惑わされてはいけないことなどは、あたり前のことですね。



現世利益の中でも、学業成就、厄落とし、家内安全、などはいいのですが、空海が仕えた貴族の対抗勢力の貴族を呪い殺すようなものは、仏の教えに背くものだろうと私は考えています。



さて、私が、生まれて初めて、法華経(『妙法蓮華経』)に即して生きている方と出会ったのは、1983年の夏、日本アマチュア演奏家協会・志賀高原音楽祭「ピアノと遊ぶ会」に出演したい、と、会長の私の住んでいた、住友信託銀行小金井寮に電話を下さって出会った、作曲家・兼・ピアニストの、有島重武さんでした。



志賀高原音楽祭に、有島様は、黒塗りの車で、ファゴットの上手い秘書と一緒にいらっしゃいました。



そのとき初めて、有島様がいつも東京六区でトップ当選している衆議院議員でいらっしゃることがわかりました。



J.S.バッハの「パルティータ 2番」を演奏されたのですが、素晴らしかったので、私はお聞きしました。



「有島さん、誰にピアノを教わったのですか。」



「J.S.バッハについては、ヨーロッパ遊学中に、シュトックハウゼン先生に教わりました。」



「・・・・・。本当ですか、信じられないや。」



会場にいた、トップアマチュアピアニスト、トップアマチュア弦楽器奏者、芸大、桐朋、武蔵野、国立音大のピアノ科の生徒は、みんな愕然としたものでした。



この音楽祭の時に、有島様は、アマチュアヴァイオリン奏者のリクエストで、ベートーヴェンの大公トリオを初見で見事に演奏されました。



そのあと、会員全員の要望で、1991年に、「ピアノと遊ぶ会」が「日本アマチュア演奏家協会」との共催で、チャリティコンサートを行った時、衆議院議員ご勇退後の、有島様が出演され、ドビュッシーの作品を演奏されました。



このチャリティコンサートの公園名義取得で外務省の後援をいただく時には、全くわからなかった私を有島様は議員当時の経験でバックアップくださいました。が、その理由は、私の作曲したピアノ曲が気に入っておられたからなのです。



彼は、一度たりとも、政治家カラーを私達の前では出しませんでしたので、公明党の議員でいらっしゃったことすら、私は全く知らなかったのです。〔このあたりのことは、下記エッセイに詳しく書いていますので、是非、ご一読下さい。〕



『世界の子供達のためのチャリティ受難曲』



あのチャリティコンサートから、22年経過しました。私は、1994年に母の介護のため高松にUターンし、2006年に母を看取りました。



2007年に作曲し、香川県庁主催の栗林公園庭園コンサートで初演し、香川県庁の依頼でCDも出した、母の追悼のためのピアノ組曲「記憶の底の栗林公園」OP.111 を私のホームページで聴いて、CDを購入したいと、いきなり私の家にいらっしゃったのが、高松市議会議員のN氏でした。



以来、N氏とは、フェスイスブックでいろいろやりとりをしていましたが、一昨年の2012年から、高松市林町の「カフェクサカ」で毎月ライブをやっていて、昨年であった、当時27歳だった山本君と出会ってコラボをやっていることを知って、N氏は、聴きにいらしてくださったばかりか、とても寒い日だったので、車で私を会場まで送ってくださったのです。



母の七回忌も終わり、一段落した私は、この先の余命いくばくもない自分の一人生きてゆく時の信仰について、いろいろと考えていましたが、N氏が、公明党の議員でしたので、有島さんとの共通点、つまり、前向きに生きる姿に感服していたので、私の正直な法華経の教えを求めていることをお話しました。



こうして、私は、とても幸せな出会い〔有島重武氏とN氏、という音楽関係者〕で、創価学会に入り、日蓮宗を信仰することにしました。



信仰を開始するプロセスは皆様様々でしょう。が、私は、自分で勉強して求めてからでないと、自分の信仰は、絶対に決めません。今回は実際に私が人生で、音楽関係で出会った二人の創価学会会員の生き方に惚れて決めましたので、それでよいのです。



有島重武氏の作品はいくつか知っておりましたが、彼が、懇意にされていた、創価学会名誉会長の池田氏の依頼で作曲した数曲を拝見し、2006年に他界された有島様のことを懐かしく思い出し、涙が止まりませんでした。音列の発想などは、作曲家個々人独特のものですから、すぐに、有島氏の作品だとわかりました。



2014年1月2日に、高松市勅使町の池田記念会館での創価学会の集まりに出席し、ご本尊をいただき、N氏が整えて下さった自宅の飾り台に据え付けて、毎朝、お祈りしています。



N氏は東京のご出身でしたので、19年間東京にいた私とはお話も合います。また、N氏の所属する、入会した御殿支部の会場には、ピアノがあるそうなので、皆様のリクエストに答えて演奏できるという、本当に素敵な信仰の日々を送れるとは、今年は最高のスタートになりました。



深く深く、感謝しています。



掲載写真は、1991年当時の、創価学会・音楽隊・初代隊長の、有島重武氏、です。






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Posted by 岡田克彦 at 03:17Comments(0)アーテイストとの出会い

2013年07月15日

想像以下の“今”はない

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「岡田さん、R&Bってご存知ですか。」


ボーカリストの27歳の山本君は、私の自宅に遊びに来て、私のピアノと一緒にいろいろコラボをやって遊んだ後、ミネラルウォーターをぐっと飲んで、私に言いました。


「何だいそれ。」と私。


「リズムアンドブルース、ですよ。そんなことも知らないのですか。」


「うん知らないよ。何か音楽のジャンル名なの。ぼくは、ドビュッシー、フォーレと、J.S.バッハ、あたりは大好きだけどね。ごめんな。年寄りのおっさんだから。」


「そんなつもりじゃないですよ。ただ、ぼくの好きな音楽を知ってもらいたくて。」


まあ、自分のプライドを満たすために、知らないことをわかったように言うことは、私は、自分のライフワークの音楽ジャンルにおいては、これまで一度もしたことはありません。ごくごくあたり前のことですが、ソクラテスの言う「無知の知」を何歳になっても素直に言えることが、アーティストとしては必須のことだからです。


自尊心を満たすくらいなら、50年以上作曲をやって来た私は、対位法の禁則事項について、「こんなことも知らないの。」と言ってしまうことは簡単なことなのです。


もちろん、相手が自尊心や年の功を武器に、ガタガタ騒ぐような俗物なら、私は絶対に許さないですよ。


しかし、山本君は、私の大切なコラボの相方なのですから、私は続けました。29歳程度の年の差なんて、音楽芸術においては、まったく無意味ですからね。


「山本君、R&Bについて教えてよ。」


こうして、山本君は、R&Bについて、いろいろ親切に教えてくれました。


その結果、これまで、彼がやりたいと言ってコラボした、エグザイルのあつしがカバーしている作品などが気に入っているのも、全て、あつしが、R&B、のボーカリストだということ、彼がこれからやりたいと思っている、米倉利紀氏もR&Bのシンガーソングライターだということがわかりました。


もちろん、私も自分でいろいろ調べましたので、R&B出身のアーティストにもいろいろいることがわかりました。が、基本が、黒人霊歌につながる点において、R&Bを起点にしている人は、少なくとも、人間の内面に深く沈潜してゆくアーティストだということ、だから、そんじょそこらの、ミーハーなシンガーソングライターとは違うこと、などが理解できました。


例えば、エグザイルのあつしは、ボーカルソロでは、絶対に日本語の作品を大切にしていることなど、全て理解できましたし、彼が、キーボードで弾き語りをしていることや、幼少期にピアノをやっていたことなど、全てが、瞬時に理解できました。


こうして、米倉利紀氏の作品をいろいろやったのですが、最高傑作は、『hands』だ、私はこの作品を自分でアレンジしたい、と、私は確信したのです。


この、『hands』は、ラブソングの外見をしていますが、非常に深い、ヒューマニズムを歌った傑作です。


さすがに、私でも、米倉利紀氏の『Yes,I do.』は耳にしたことがありました。


しかし、「今でもね、今でもね」「でもでもね、たまにはね」「この頃ね、この頃ね」「いつだって、いつだって」、のモティーフの音列が、もうひつこくてひつこくて、気に入らなかったので、無視していました(笑)。


もちろん、この部分がなかったら、この作品は、阿呆がたくさん生きている、今日の日本では絶対にヒットしなかったと思いますから、それだけのことにすぎません。


しかし、芸術的作品の価値は歴史が決めるのです。J.S.バッハの「マタイ受難曲」のように、300年以上の賞味期限があるかどうかが全てなのです。


米倉利紀氏の『hands』は、間違いなく、100年以上は残る傑作です。


『Yes,I do.』の、「今でもね、今でもね」「でもでもね、たまにはね」「この頃ね、この頃ね」「いつだって、いつだって」、なんて歌詞は、100年後の日本人に理解されませんが、 『hands』の、次の部分の歌詞と、それに付き添った音列は、普遍的なのです。


そんなことを想う時間が 何故かちっちゃくて好きなんだ

これくらいが丁度いい 想いを寄せる優しさが良い

想像通りの"今”がある、想像以上の"今”もある、想像外の"今”はあるけど、想像以下の"今”はない


この中でも、特筆に価するのは、三番目の歌詞、


「想像以下の"今”はない」


これは、決定的ですね。


アーティストは、絶対にオプティミストでないといけない、という、絶対的なことを、さりげなく、この歌の中で歌っているのです。


この点に気づいた瞬間、私は、これをピアノとボーカルのデュオでアレンジする際に一番大切な、モティーフの原型が浮かびましたので、それでアレンジしました。


『hands』という傑作作品が出来た、全ての状況に、深く深く、感謝しています。




米倉利紀





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Posted by 岡田克彦 at 21:47Comments(0)アーテイストとの出会い

2013年06月17日

「片想い専」のすすめ

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「好きこそ物の上手なれ」



ご高承の通り、この格言の意味は下記です。



どんなことであっても、人は好きなものに対しては熱心に努力するので、上達が早い。



考えてみると、私は、この格言通りに生きてきました。



現在、私は、高松市林町の、ライブ喫茶「KUSAKA」で出会い、コラボをステディーに組むことにした、27歳のボーカリストのY君と、いろいろと合わせています。











「好きこそ物の上手なれ」という格言は、絶対的なものなので、共演の彼が好きな、クラシックのピアノ曲や自作のピアノ曲を確認して、それをベースにアレンジして、やっています。



彼は、私の共演者であると共に、私のピアノ演奏を気に入ってくれる最高の感受性豊かな聴衆の一人でもあるので、この人間関係と信頼関係を作ることが、コラボや合奏の起点になることを、東京にいた頃の、日本アマチュア演奏家協会理事としての自作室内楽の共演で数え切れないくらい経験してきましたので、この私のやり方は絶対に成功するからなのです。















掲載写真は、私の大切なコラボ相手の、29歳年下の、Y君です。



彼は私の大切なコラボ演奏の相方で、私のことを親父だと慕ってくれている、100%ノンケの、独身の私の大切な息子なのです。



私は、自分がゲイだと自覚した、東京の住友信託銀行新宿支店で働いていた25歳の時に、独身で生きてゆくことを決心しました。



当時からピアノ演奏、ピアノ曲、室内楽作曲や、ピアノソロや室内楽の自作自演を一杯やっていて、住友信託銀行東京本部で働いていて年収も多かったので、私の周囲には、女性の歌手やピアニストが結婚して欲しいと群がってきました。が、ゲイの私が結婚するということは、一人の女性を生涯に渡って騙すことになますから、こんな罪深いことはないと思いましたので、生涯独身で生きることに決めたのですが、その考え方は今も全く変わっていません。



高松にUターンして介護していた母の死去までに、ゲイ同士、ステディーに付き合った男は、東京、大阪、高松、に、合計、数名いました。



もちろん、性欲も強かったですから、あんなことやこんなこと、いっぱいやりまくりました。



でも、作曲家・兼・ピアニストの私は、セックスの快楽よりも、かけがえのない相手という人間が好きだというヒューマニズムの方を大切にしていましたので、母を看取り、56歳になった今日では、性欲は衰えていませんので、ゲイで性欲を満たしたいという、音楽好きで私の自作や私の得意なフランス近代室内楽や、私のアレンジしたピアノ演奏で合わせたい人間との間では、いつでもOKです。性別は全く関係ありません。



が、相手が男性の場合、ノンケの音楽好きな演奏活動をしている若者に対しては、自分からカムアウトしても、100%嫌われることはないので、自分が自制心をキープしていれば、自分の性欲をアレンジや作曲に昇華させて、合奏やコラボで合わせる時に集約できることで、非常に楽しいので、全く、問題はありません。



また、ノンケの男性の若者が演奏活動とは無縁であっても、自作のピアノソロや室内楽をライブで聴かせる時や、グルメの話題を提供して、一緒に、美味しいものを食べに行ったときに、共有できるので、全く問題なく、自分に正直に生きてゆけるのです。



なぜなら、私は、生まれた時から男なので、嫉妬や妬みのような女性の得意な感情とは無縁に生きていますからね。



これまで、ヒューマニストの私は、ゲイの世界では、「誰専」〔どんな相手でもやりまくる節操のない男〕として生きてきましたが、以上のような、芸術活動を通して、「片想い専」に昇華しつつあるようですね。



理由は明確で、男性については、ゲイの若者よりもノンケの若者の方が、音楽的に共感できる確立が高いからなのです。



だから、私は、片想いのまま、その若いノンケの男性とコラボすることが、一番幸せな毎日なのです。



まあ、あとの私の希望は、その大好きな、コラボしている若いノンケの男性に、素手で絞め殺されることですね。



私を素手で絞め殺すには、相手は私の喉に素手をかけて、窒息させないといけないのですから、こんな強固なスキンシップはないからなのです。



「人間死ぬ時はひとりぼっちだ」と思っていましたが、これならば、一人じゃなく、相方と二人ぼっちなのです。



なんて幸せなことでしょう(爆)。



下記の、浜田省吾の傑作の「片想い」は、ノンケの男性を好きになってしまったゲイ全員に共通するテーマですね。だって、満たされることは未来永劫、ないからなのです。



浜田省吾・作詞作曲の「片想い」



作詞:浜田省吾 作曲:浜田省吾



あの人のことなど もう忘れたいよ

だって どんなに想いを寄せても

遠く叶わぬ恋なら



気がついた時には もう愛していた

もっと早く「さよなら…」言えたなら

こんなに辛くは なかったのに



あゝせめて一度だけでも

その愛しい腕の中で

「このまま 傍に居て 夜が明けるまで」と

泣けたなら…



あゝ肩寄せ歩く恋人達

すれ違う帰り道

寂しさ風のように

いやされぬ心を もて遊ぶ



あの人の微笑 やさしさだけだと

知っていたのに それだけでいいはずなのに

愛を求めた片想い

愛を求めた片想い





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Posted by 岡田克彦 at 14:16Comments(0)アーテイストとの出会い

2012年09月22日

S女史との出会い




昨夜、丸亀市のピアノバー「ルフラン」サロンコンサートに、てっちゃん、トシさん、と一緒に出演してきました。



ものすごい出席者だったので大変でしたが、聴きにいらしていた、フルート奏者のS女史と出会い、プーランク、フランクのソナタをご一緒することになりましたので、出席してよかったです。



やはり、香川県内の音楽文化水準は、西讃(西地区)が高松市も含む東讃(東地区)よりも高いですね。



来月の10月20日の高松市「カフェ クサカ」でご一緒に演奏することにして、早速、明日会って、「クサカ」で練習することにしました。



このデュオの名前は、私が東京在勤当時、デュオを組んだ時に必ず命名していた「ラヴィーヌ・デュオ」を使って、「高松・ラヴィーヌ・デュオ」にしました。



この、「ラヴィーヌ」という命名は、30年前に私が東京で主催していた「ラヴィーヌ楽派」〔フランス近代室内楽の会〕からとったもので、語源は、ドビュッシー作曲のプレリュード第二集の『風変わりなラヴィーヌ将軍』です。



30年前の東京のアマチュアクラシック演奏仲間では、ドイツロマン派や古典派の室内楽ばかりを演奏する風潮が強かったことに私が反発して、フランス近代音楽をもっと楽しもうよ、という意味で命名したものでした。当時は、フォーレやラヴェルの室内楽をやっていると、風変わりな人たちだ、と言われたことを逆手に取った命名でした。が、カザルスホールアマチュア室内楽フェスティバルのオーディションもこのサークルで出会った、弦・管楽器奏者と一緒にとりましたから、とてもよい思い出のある名前です。



しかし、現在の香川県のアマチュアクラシック演奏家の水準は、当時の東京にも遠く及ばないものなので、ドイツロマン派かフランス近代か、を選択できるような状況ではないので、ジャズ、ポップスやロックのコラボやセッションばかりやっている人たちに対して、私達は、ちょっと違うのですよ、といった程度の軽い意味で命名しました。



まあ、音楽的にちょっと違っていても、香川県民は全員うどんが好きな点では一致していますので、大した違いではないのです。ドイツロマン派、フランス近代、ジャズ、ロック、や、ポップスなどの音楽がなくても生きてゆけますが、うどんは、大切な食べ物で、人間の生存に必須の衣食住に含まれますので、生存にあたっての必要性は全く違いますからね(笑)。



とりあえず、フォーレ、サン=サーンス、プーランク、フランク、から何曲か、明日初見でやる予定なので、とてもとても、楽しみにしています。



でも、30年前と違って、ぼくの目に老眼が来ているので、演奏しながら初見の楽譜が見えるかどうかが心配なのですけど・・・・・(笑)、まあ、彼女が私の自宅に昼前に車でいらっしゃるので、近所の美味しいうどん屋でいっしょにうどんを食べてから、「くさか」に行くことにしています。



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Posted by 岡田克彦 at 20:13Comments(0)アーテイストとの出会い

2012年08月16日

ジャック君のこと




ぼくのフェイスブックの頭のカバーというところに、自分の入った写真をアップロード出来る、とのことで、どれにしようかな、と迷ったのですが、1994年の高松Uターン後の写真から選びました。



もちろん東京にいた頃の外務省、ユニセフ後援のチャリティコンサートや、御茶ノ水カザルスホール等での自作自演室内楽の演奏会写真は、いっぱいあるのですが、昔の東京と今の東京は全然違っていますから、最近のものにしました。



でも、Uターン後、18年も経過してUターンの目的だった介護していた母も看取りましたが、ぼくは、いつも、作曲とピアノや室内楽、コラボを続けていますので、ピアノの前に座って自作を演奏する時には、ピアノソロであれ室内楽やコラボであれ、ピアノを始めた3才当時にタイムスリップしていますので、変なおっさんなのです(笑)。



その変なおっさんが自作やアレンジをピアノで弾いている写真はいっぱいありまして、倉敷御園旅館や岡山後楽園での写真、クレメント高松での写真、母の一周忌ころ香川県庁に頼まれて出演した栗林公園庭園コンサートの写真、2009年4月19日のサンポート高松での「おいでまいフェスタチャリティコンサート」の写真、ポップスとのコラボの写真、等、いろいろありました。



が、神戸の、当時23歳だったアマチュアヴィオラ奏者のジャック君との「逸珈琲」での2007年頃のスナップにしました。



2006年の母の逝去直後、彼はヴィオラを持って私と合奏するために高松に来てくれたのです。



その後、いろんな人達の激励もあって、母の一周忌を過ぎた、2007年10月14日(日)の、栗林公園庭園コンサートで、母と行った思い出で作曲した、ピアノ組曲「記憶の底の栗林公園 OP.111」(全18曲)の自作自演の初演を経て、やっと私は、母の逝去から受けたショックから立ち直り、平常心に戻れたのでしたが、そこまで回復できる一番の励みをぼくにくれたのは、アマチュアヴィオラ奏者のジャック君、でした。



母が亡くなって一人暮らしになったぼくの自宅で宿泊した時、いろいろ、シューベルトのアルぺジョーネソナタなどを合奏してうどんを食べて帰った後、隣の部屋で寝る直前に、彼は、ぼくの部屋に来て泣きながら言いました。



「オレ、オレさあ、もし、今、おふくろが亡くなったりしたら、ショックで生きていけないよ。岡田さんて強いね。オレも見習わないといけないや。」



この一言が、私を立ち直らせたのでした。当時、50歳近かった私にしてみれば、23歳の彼は、子供、あるいは、孫、の世代だったのです。



彼はラグビーをやっていたスポーツマンでヴィオラを始めて日も浅かったのに、顔をくしゃくしゃにして泣いているのです。その彼から言われたら、立ち直るしかないじゃないですか。



母の逝去にあたっては、いろんな人達がいろんな言葉を下さいましたが、彼の一言には、遠く及ばないものでした。



この時ばかりは、普段はあまり好きじゃない、シューベルトに感謝しましたよ。シューベルトが作曲した「アルペジオーネソナタ」を私と合奏するために、彼は、高松に来ていたのですからね。



シューベルトの「アルペジオーネソナタ」は、東京にいた頃、彼のヴィオラよりも数段上手なチェロ奏者と何回もやったことがありました。ピアノパートはイ短調のいたって簡単な曲なのです。



しかし、それ以来、私は、シューベルトの「アルペジオーネソナタ」については、彼のヴィオラ以外のアーティストとは絶対に合奏しないことに決め、彼のヴィオラのために、ピアノとヴィオラの作品を作曲して献呈しました。



ほんのささいな御礼に過ぎないのですが、彼に献呈した私の自作譜面には、彼と私以外の演奏を禁止する、という文言も入れましたので、これでいいのです。ピアノの入るクラシックの室内楽作品は山のようにありますから、「アルペジオーネソナタ」1曲程度を固定の人としか演奏しないことに決めても、全然、問題ないのです。



掲載写真は、フェイスブックに掲載した写真です。



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Posted by 岡田克彦 at 21:56Comments(0)アーテイストとの出会い

2012年04月29日

幸せだなあ・・・・・



















昨夜、私の高松ファンクラブ会長のK女史のご紹介で、昨夜、高松レインボー通りの、「K」というお店のオーナーと会い、いろいろなジャンルの高松のアマチュアバンドが集まって演奏している空間に参加しました。



30歳代より若い人達が一杯で、カントリー、ポップス、ロック、フォーク、など、ごちゃ混ぜの、素晴らしいライブハウスでした。



さすがは、私の高松ファンクラブ会長です。作曲家として私の好きなものを全てご存知でした。



しかも、T君という、ボーカルとギターの素晴らしい30歳になったばかりの若者を紹介して下さったのです。



彼はステージに上がってギターを持って『おぼろ月夜』の一節を歌って、いきなり「おふくろーーー。」と叫んで、スタートさせました(笑)。



そして、高松市のラブホテルが集中している詰田川のそばに住んでいるから、と言って、井上陽水の『リバーサイドホテル』を歌った後、私はびっくりしたのです。



なんとなんと、ピアノに腰掛けて、弾き語りを始めたのです。それも、ただの弾き語りじゃないのです。本格的なテノールによる、イタリア歌曲の数々でした。



私は、腰を抜かしました。だって、「サンターーールチーーーーア」というところを、弾き語りでやっているのですが、イタリア歌曲ですから、お腹がピアノを弾く手にあたって、大変なことになっているのに、鍵盤をろくに見なくても、バスの音は一回も、はずしませんでした。



彼の演奏後、私はオーナーのすすめで、ちょこっとグランドピアノにさわらせてもらいました。ショパンの幻想即興曲の途中の2小節だけ。すると、「あっ、ショパンの幻想即興曲だ。」と彼。



参ったよ。参りました。私は直ちに彼のファンになることに決めましたので、ここのライブの次回が5月26日だということで、ここで彼とコラボをすることに決めました。



帰宅途中、私の高松ファンクラブ会長のK女史と一緒に、ガストで、カルボナーラを食べながら、もう、興奮した私は、彼と何をやろうか、なんて考えていました。



そして、思い立ったが吉日、なので、夜中に、いろいろピアノで弾いてアレンジしていましたので、朝になってしまいましたので、朝うどんを近所の「さぬき麺市場」で、『釜玉うどん』と『竹の子の天麩羅』をいただいてから、鶴市町の喫茶「珈琲畑」でモーニングをいただいて帰宅しました。



夕方まで、アレンジを考えながらぐっすり眠り、彼に電話して、連休明けに合わせることにしました。



従って、連休中は、彼とのコラボのアレンジをしているのです。ほんとに幸せだなあ・・・・・。



掲載写真は、「さぬき麺市場」の『釜玉うどん』(270円)、『竹の子の天麩羅』(100円)、と、無料でとり放題の、大根おろしとレモン、です。







  


Posted by 岡田克彦 at 21:35Comments(0)アーテイストとの出会い

2012年03月13日

香川県善通寺市の若者との出会い


昨日は、とても嬉しい一日でした。



というのも、ミクシィで、香川県善通寺市に住む、私の半分も生きていない、とても社交的な若者との出会いがあったからです。



少し前に、彼からメールをいただき、いろいろなやりとりをしているうちに、一度会おうよ、ということになりました。



こういう時、私は、最大の敬意を払ってお会いするようにしています。



大体、ウェブだけで活動している若者の一部には、アナログに会うことを嫌がる人が多いのです。



住所も勤務先もわからない、ハンドルネーム等を使わないと本音を言えないという、ネット社会の弊害を確立したのは、間違いなく、インターネットが始まった頃に、西村ひろゆき、などという、ホリエモンや三木谷とどっこいどっこいの、アナログに出会っていたら、全くキラキラした感受性を全く感じないような物体が中心になって始めた、2ちゃんねる、などという、コンプレックスのゴミ箱のような場所が、バスジャック事件等の犯罪発生の温床になったことから、個人情報保護法の拡大解釈をしないと、ネット上ではまともな出会いが出来ないようになったことが、すべての原因になっているようです。



ひとつには、ネット上では、本当かうそかわからない言語情報でしか判断が出来ないことが一番問題なのです。



ネット上で出会った人の紹介でオフ会に行って、つまらなかったことは、ネットに出て12年以上になる私は、数え切れないほど経験しました。



私と同世代かそれ以上の年齢の皆様との出会いは、全然、大丈夫なのです(もちろん、例外もありますけど、傾向値としてはOKなことが多いのです)。というのも、ネット上で出会った人とリアルに会う場合、私は、絶対に一対一で会うことに決めているからです。



一対一で応対できない人に、私は、全く無興味なので、ミクシィなどのSNSで出会った人と実際に面会するのも、最初は、一対一で会うことに決めています。



だから、いい出会いがあったと私は痛感していますが、この一対一で、初対面の人と会うことを怖がる人が、2ちゃんねるのような、タメ口しか叩けない、ドブのような場所でしかコミュニケート出来ない人からのようです。



しかも、私の半分も生きていない世代の人達は、生まれた時から、ネット環境は整備されているのですから、このような自己防衛本能が働くことは仕方がないのです。が、これは、その人の考え方、人間の観察の原点を、私たちのようなアナログ世代の人間とは全く異質なものに変えてしまうのです。



端的にいえば、性善説(人間の本性は基本的に善であるとする倫理学・道徳学説)から、性悪説性(人間の本性は基本的に悪であるとする倫理学・道徳学説)に変えてしまうのです。



こうした状況をさらに悪くしているのは、バブル崩壊後の長期にわたる不景気の情勢で、この状況は、ケインズの言葉を借りるならば、すべての住民を、投資よりも貯蓄に向かわせる景気動向に対して、”弱気”な状態にし、人と人の一期一会についても、オプティミスティックな気分ではなく、ペシミスティックな気分で立ち向かうことが日常になってしまうのです。



ところで、私は、住友信託銀行在勤当時から、趣味でクラシックの室内楽曲作品をいろいろと作曲していましたので、ともすれば、気難しい人、と見られることが多かったのですが、その都度、「私は底抜けの楽天家ですよ。」と言ってきました。過去の作曲家を見ても、ペシミストは傑作を書いていないので、あたり前なのです。ペシミストは視野が狭くなるということは、大昔から決まっていることですから、作曲のモティーフを自分の中に投影する時に、まず、自分の五感はすべてのものに対して開かれていないとダメなので、あたり前のことなのです。



まあ、それでも、私のことを楽天家と認めない、28歳当時勤務していた、住友信託銀行新宿支店の支店長には、私の作曲の現場をお見せしたことがあります。



当時私はいつも、五線紙のノートを持ち歩いていました。いつ、モティーフが浮かんでもいいようにしていたのです。なぜって、私は、モーツァルトほど音楽モティーフを記憶する能力がありませんでしたので、思い立った時には、すぐに、五線紙に書き取っておいたためなのです。



その日、午前中に、取引先だった市ヶ谷の創価学会本部の前の噴水が素晴らしかったので、16小節のモティーフが浮かんでいたので、それを帰社後の昼休みの食堂での昼食後、五線紙のノートに書きとめているうちに、これは、80小節前後のピアノ小品に出来るな、と感じたので、大急ぎで、書き進めていたのです。



この時、休憩室の私の向かいに支店長が座って、私が書き進めているのを、ずっと見ていたのですが、私は、作曲中は、外界からの刺激をシャットアウトしますので、ひたすら、書き進めて30分で出来上がって、ホットコーヒーを飲みながら、「いい作品かもしれないなあ。独身寮に帰って、ピアノで弾いてみよう。」とつぶやいたのです。



つぶやいた、と言っても、1985年頃のことですから、ツウイッターじゃないですよ(笑)。



すると、ずっと私を観察していた支店長が、「すごいな。君は天才だ。新宿支店の宝物だ。」と大騒ぎして、食後、大阪の本店統括部(人事部)にすぐに電話をしたのです。



支店長室に呼ばれたので行ったところ、「君は、すごい。たった今、本店総括部に電話して、君の作曲の才能を報告したよ。でも、どうして、うち〔住友信託銀行〕になんか就職したの。」などと尋ねるので、私は、もう、仕事モードになっていたので、「支店長、仕事中に何をしていらっしゃるのですか。よほどお暇なんですね。」と言ったので、大笑いになりました。



「百聞は一見にしかず」と言いますが、そのとおりの状況が支店長の目の前で起こったのですから、そうだろうな、と私も感じましたが、あつかましくも、私は午前中に訪問した創価学会のことを報告して、「このままでは、三菱信託にとられちゃうかもしれません。」と言ったため、午後から、支店長が、私を支店長車に乗せて、再度、創価学会に行って、その週末の接待まで決めてしまったので、創価学会のそのときの信託預金に預ける予定だった20億円は、全て、「住友信託新宿支店」で丸取り出来ました。



しかも、それを、全て、私の成績にしてくださる、とのことで、次のボーナスにはねることまでおっしゃったので、「支店長、それは公私混同です。いけません。作曲は私の趣味に過ぎませんから。」と申し上げたのですが、そうはなりませんでした。



でも、このように、期せずして入ってくるお金は、拝金主義やM&Aで得るお金とは、全く、別物なので、有難くいただきましたが、300万円のうち150万円は、高松で、妾を8人も作って遊びほうけていた父と離婚後、高松市西宝町の実家で、祖父母と一緒に暮らしている母にキャッシュで現金書留で送り、食器が古くなったと言っていたので、125万円で、斜め向かいの伊勢丹で食器全て10コずつの『たち吉』と『アダム&イブ』でそろえて、「絶対に割れないように送ってください。」とお願いして送りました。



食器を出すのが大変だろう、と思ったので、残りの25万円で、高松市錦町に住んでいた叔母(母の姉)が毛皮の首巻がほしい、と言っていたので、ミンクの毛皮の首巻を伊勢丹で買って、高松に食器が届いたときには、母を手伝ってください、という手紙を送りました。



この食器は、今も、母の没後私の自宅の食器棚にあって、「岡山後楽園築庭300年祭」に、石井岡山県知事の招聘で、俳優の江守徹さんなどの朗読とコラボ出演した時に、私が、ギャラを一銭も受け取らなかったので、石井県知事がポケットマネーで買って送ってくれた、人間国宝の藤原さんの焼いた備前焼のビアグラス(50万円くらいするのだそうですが、江守さんは20分の朗読で300万円のギャラでしたから、適正価格だと感じています。)と共に置いて、愛用しています。



大体、食器はそれを使うためにあるのです、「なんでも鑑定団」に出すなんて馬鹿げていますよね(笑)。



前置きが長くなりましたが、善通寺市の23歳の若者と初めて会う場所は、割烹「篠乃路」にして、懐石料理のコースと素晴らしい焼酎は、私が全部ご馳走することに決めて、2012年4月5日の夜にして、個室も予約しました。



いろんなことをお話しすることにしています。彼が、外資系の生命保険会社で働いていること、趣味と副業がイラストレーターだということも、彼が思い切って私のところに電話してくださったときにお聞きしましたので、彼の営業上役に立つ、高松市内の資産家の私の高松高校時代の友人は全てご紹介するつもりですし、私の出版製本予定の自作楽譜は、全て、彼のイラストにしようと思っています。



割烹「篠乃路」の亡きご主人は、私の祖父の板前だった、岡田照馬の知人でしたし、割烹「篠乃路」の奥様は、私の作曲作品のファンなので、まさしく公私混同なのですが、高松は、海外の四国なので、東京のような営業手法は成り立ちませんので、それでいいと思います。



でも、参ったのは、彼のお父様が、53歳で、私よりも年下だということ、なのです。若すぎるなあ。でも、若いから、無限の可能性があるなあ。



どうして、若い知人のためにそんなにしてあげるのか、って。



それは、バブル前の好景気の時代を知らない、しかも、直属の上司が、2ちゃんねる世代のかわいそうな状況だからなのです。しかも、彼の世代は、年金は破綻していると思うから、大変だろうなあ。



でも、こんな世の中なのに、彼は、ミクシィで、異業種交流会を展開しているのです。こういう若者こそが、これからの、日本をよくしてゆくのだ、と、私は、確信しました。



いろんなことを勘案して、私は、彼の準保護者になることを決めました。私の決定事項は、絶対に変更しないことは、皆様ご高承のとおりです。



最後に、皆様に私からお願いがあります。



もし、終身医療保険に興味があれば、ご一報ください。香川県善通寺市の弘法大師の末裔の好青年の彼をご紹介しますから。








  


Posted by 岡田克彦 at 03:26Comments(0)アーテイストとの出会い