2014年04月10日
美馬市のナタ君の思い出



母の介護のため、東京からUターンしたのは、1994年、私が37歳の時でした。
もちろん、懐かしい親戚や同窓生と再会出来ましたので、故郷に帰ってきたことはわかったのですが、高松の町は、早稲田大学政経学部進学のために上京した1975年頭時に比べて、だいぶ変わっていましたので、とまどうことが多かったです。
地縁関係が薄れたことは仕方ないことだと思いましたが、一番ショックだったのは、通りの名前が変わっていたことでした。
まず、「中本町通り」が「菊池寛通り」に変わったこと、「今新町通り」の一部が、高松市立美術館が出来ていたため、「美術館通り」になっていました。
菊池寛が、番町街で生まれたことは、高松市民はみんな知っていますので、生家のあった高松中央公園近くの「中本町通り」が「菊池寛通り」になったことは理解できました。
しかし、「美術館通り」とは、何事でしょう。「高松市立美術館」の土地は、「日銀高松支店」でしたし、その前は、亡き母と江戸千家不白流の茶道の会で懇意にしていた、中山さんの先祖が、江戸時代から経営していた、家具商の「近江屋」でしたから、歴史に反した命名はよくないなあ、と感じました。
が、それ以上に不愉快だったのは、「美術館通り」という響きが、渋谷の「公園通り」に近かったので、東京の真似事をするのもいいかげんにせい、と思ったものでした。
幸いなことに、高松中央商店街の名称は変わっていなかったのでよかったのですが、もし、例えば、丸亀町商店街、が、銀座商店街やら、表参道商店街、になっていたら、私は、暴動を起こしたと思いますね(笑)。
このような、通り名の変更があっても我慢出来たのは、うどん店の名前が変わっていなかったからでした。
高松一の老舗うどん店の「川福」は健在でしたし、「讃岐麺業」もOK、「かな泉」は、「加ト吉」に買収されていましたがお店はありましたので、ほっとしたものです。
また、古馬場町へ飲みに行くと、カレーうどんの「鶴丸」、「ごえもん」、があり、ラーメン店は皆無でしたので、ほっとしました。
さらに、久しぶりに行った、花園町の鴨料理「銀波亭」では、鴨鍋の最後に、山越直送のうどんを入れて、釜玉うどんにしてくれたので、嬉しくて嬉しくて、涙が出ました。・・・・・これは、決して、大げさなことじゃなく、当時、釜玉うどん、というものが存在していなかった東京にいた19年間、私は、釜玉うどん禁断症状を抱えていたためなのですね(笑)。
こうして、経営コンサルタントの仕事で四国を回ったのでしたが、その中で、四国で一番ひなびた温泉、の、徳島県の美馬温泉に、初めて行ったのは、東京から高松にUターンして1年ほどたった1995年のこと、仕事で阿波池田の方へ行く途中のことでした。
吉野川流域に抜けるには、徳島県の脇町経由の道が広いことは知っていたのですけど、そちらに向かう前に塩江町でアポイントがあったので、高松の塩江温泉の奥の湯温泉からものすごく狭い道を通って阿讃山脈を越えて徳島の吉野川流域に抜けたのでした。
そして、県道の鳴池線に出るために山を下っていると、うっそうとした竹林に入ったのでした。本当に美しい眺めでびっくりしてヘアピンカーブを曲がったところに、(当時は町立でしたが)美馬市立美馬温泉保養センター、がありました。
その日は、阿波池田に宿泊することにしていましたので(この時宿泊したのが、阿波池田の民宿ヒルトンで、その名前と実体のギャップに、東京からUターンしたばかりだった私は、呆れたのでした〔笑〕。)、すごく寒かったので、温泉大好きな私は入ってゆくことにしたのが初めてでした。
ここ、美馬温泉は何が素晴らしいか、というと、平日だと、ほとんど客がいないことでした。広い浴槽を独り占めして、硫化水素泉の温泉を堪能できたのです。
温泉に入ったり出たりしている間に、近所の農家のおじいちゃんが二人くらい入ってきましたけど、その人たちも出て、またひとりで漬かっていると、私よりも少し年下(当時、私は38歳でしたが、彼は32歳でした。)の人が入ってきたのでした。この人が、私に、山道を走るのは危ないよ、木が倒れて道がふさがってたらこれでぶった切れよと、ナタをくれた、その後仲良しの温泉友達になってしまった、美馬市の消防団員で、青年団の団長をしている、ナタ君でした。ですから、ナタ君、というのは、私がつけたニックネームなのです。
このあたりの山奥まで来ると、こういう温泉施設も近所の人が使うことが多いので、ほかの土地から行っていたら直ちに目立ってしまって、どこから来たのか、なんて必ず話しかけられるのですよね。だから、「高松から来ました。」って答えるとものすごく驚かれました。当時の私は東京からUターンしたばかりでしたので、千葉から埼玉に行くよりも高松から美馬に行くほうが近いと思っていましたので、なんで驚くのかな、なんて思っていました(笑)。
で、ここで出会ったナタ君(いろんな複雑な事情があったみたいで、彼も、独身でした。)から、ここのレストランのおばちゃんの料理が抜群なので、時々、温泉に入った後は食べて帰るんだ、と聞いたので、一緒に夕食をいただきました。
このあたりの川魚の代表の、アマゴの塩焼きや刺身は、高松の塩江温泉でもいただいたことがあったので驚かなかったんだけど、びっくりしたのは、馬刺しと山菜でした。このあたりでは馬刺しを食べる習慣が昔からあるのだそうです。また、山菜は、やまくらげ、とたらの芽が抜群でしたが、一番感動したのは、そば粉にする前のそば米を使ったお吸い物と、冷奴に載っていた「みまから」でした。私は早速、「みまから」を買って高松に帰りました
こうして、美馬温泉でナタ君と出会ったお陰で、私は、四国にUターンしたんだ、という感を強固に出来ました。
大体ですね、出会ったばかりでどんなに親しくなっても、いきなり、ナタをプレゼントする人は、東京には絶対にいないでしょうね。
香川県と徳島県では都道府県が別じゃない、と反論したい方もいらっしゃるでしょうけど、四国人どうしの日常会話は決まっているので大丈夫なのです。
それは、四国霊場八十八ヶ寺、四国電力、JR四国、です。
「また電気代が上がったのう。」、「JRの電車は、トロートロしよるのう。」、あたりは、四国人同士の日常会話ですし、「お大師さんのお寺」は、四国人全員の自宅近所に必ずありますから、大丈夫なのです(笑)。
掲載写真は、順に、美馬温泉保養センターの硫化水素温泉、外観、です。
この温泉の効能は、傷を治してくれることですね。

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Posted by 岡田克彦 at 05:17│Comments(0)
│地縁関係