2014年07月01日
明日は、「うどんの日」ですね



明日、7月2日は、うどんの日、です。
うどん県外には「うどんの日」の習慣はありませんが、うどん県では、「半夏生(はんげしょう)」〔夏至から数えて11日目のこと〕には、農作業も一段落し、昔から、うどんを楽しんでいたことから、香川県の外郭団体が中心になって、無料でうどんを振舞うことが定例化しています。
香川県の外郭団体の「本場さぬきうどん協同組合」では、毎年、うどんの日に、高松市内(三越高松店前や、栗林公園入口)、讃岐うどんの創業者の弘法大師生誕の善通寺、などで、無料で『冷やしぶっかけうどん』を、1000食、接待しています。
転勤族の皆様や観光客の皆様は、食べに行く方が多いですが、生粋のうどん県民は、毎年のことですから、通りかかったらいただく、程度の気分ですね。だって自宅で手打ちする人が多いですし、打ち込みうどんを作れない主婦は、うどん県には存在しないみたいですから(笑)。
まあ、うどん県はうどんに狂っているのでしょうけど、四国四県はそれぞれ何かに狂っていて特徴的なのですよ。
徳島県庁には、総務部あわおどり課、があって、一年中阿波踊りのことを考えている人が多いですし、愛媛県民はみかんに狂っていて、ごはんを炊く時に、お水と一緒に名物のポンジュースを入れて炊き、みかんごはん、にして食べています。また、高知県は、食物では、かつおのタタキなどが有名ですが、坂本竜馬の銅像だらけですからね(笑)。
掲載写真は、毎年、うどんの日に、うどんが接待される、三越高松店前の光景です。

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タグ :讃岐うどん
2014年07月01日
「アンブレラ・ボーイ」の思い出



私が、ライオンズクラブ・交換学生で、USA・ワシントン州のホストファミリーに滞在したのは、香川県立高松高校2年生だった、1973年・夏のことでした。
ホストファミリーは2つで、第一ホストファミリーは、ワシントン州の内陸の、ワシントン州第二の都市、スポケーンの近くの、オセローという、田舎町で、お父さん、お母さんと、男子5人女子4人の大家族でした。
完全に機械化された、ものすごく広大な、トウモロコシ、ジャガイモ、小麦、などの大農場を経営していましたが、農場経営は、ホストブラザーが全てやっていて、ホストファーザーのカールは射撃とゴルフが趣味、ホストマザーのペギーは、ホストシスターと一緒に家事をしていましたが、働く女性の人権擁護のNPO法人の代表をしていました。
ライオンズクラブの位置づけは、日本とは全く異なっていて、USAでは、ロータリークラブに次ぐステイタスのあるもので、連れて行ってくれた競馬場では、貴賓席の一番良い場所に座っていた、ロータリークラブの次に良い場所が、ライオンズクラブの人達の座席でした。が、当時のシアトル市長が、ライオンズクラブに所属していましたので、上流階級と認識されていました。
こんなことは、私が生まれ育って暮らしていた、香川県高松市番町のような、セコセコした狭い住宅地では想像も出来ないものでしたし、北海道などの広大な農場でも太刀打ちできないような広大な規模でした。
大体、私がロサンゼルス経由で、ユナイテッドエアラインで到着した、シアトル国際空港には、ホストファーザー、ホストマザー、一番年下のホストブラザーのトム(13歳)、一番下のホストシスターのキャッシー(11歳)が、一緒に迎えに来てくれていたのでしたが、そこから、オセローにある豪邸まで、フォードの自動車で8時間も高速道路を飛ばして連れて行ってくれましたから、大変な広さだということを感じました。
「アーユーハングリー」と聞かれ、時差ぼけでロスで食べためちゃくちゃ甘い「スープンサンドウィッチ」がとても食べられなかった私は、「イエス、イエス、ソーマッチ」と答えたのが、初めての会話でした(笑)。
まだ、早朝でしたので、高松だったら、うどん屋につれてゆくところだったと思いますが、カールが連れて行ってくれたのは、24時間営業の「マクドナルド」で、そこで、「ジャンボホットドッグ」と「ルートビア」を注文してくれました。
「ルートビア」は、真っ黒な炭酸飲料で、コカコーラよりも甘さ控えめで、食事にピッタリの飲み物でしたが、私は生まれて初めてのものでした。
が、驚いたのは、「ジャンボホットドッグ」でした。1メートル以上の長い長いフランスパンに切り目を入れたものに、ハンバーグ、パストラミ、ハム、ソーセージ、レタス、トマト、ズッキーニ、などが、マヨネーズベースのソースとともに山のように入っているのです。
「Can you eat?」と、カールはいたずらっぽく私に言ったのですが、たぶん試されていたのでしょう。が、私はお腹がペコペコでしたので、全部平らげて、「ベリーグッド、ファンタスティック、ワンダフル、ビューティフル」など、絶賛したので、いっぺんに仲良くなったものです。
こうして、フレンチフライドポテトを食べながら、自己紹介したり、家族構成を説明されたりしました。
私の名前「カツヒコ」は、とても発音しにくかったので、「カツ」と呼ばれることになりましたが、「カツ」と呼ばれることに、私が、あまり嬉しそうな顔をしなかったことを察知したカールは、私が身につけていたものが全て、「アーノルドパーマー」のシャツやジャケットだったため、そのロゴマークの傘を見て、その後、教会へ行った時などの周囲の皆様に私を紹介するときには、私のことを、何と何と「アンブレラボーイ」と言ったのでした(笑)。
こうして、途中、「デニーズ」で食事をいただいて、夜、ホストファミリーの豪邸に到着したら、飼っていた番犬のポインターが私に飛びついてきてびっくりしましたが、私は犬が大好きだったので、どうもありませんでした。
でも、とても疲れた私は、直ちに、決めてくれていた自分の部屋のベッドでぐっすり寝ました。
ですから、状況が明確になったのは、翌朝目覚めて窓から外を見て、地平線まで全て、とうもろこし畑だということがわかった時でした。
昼食後、日本から持参した、扇子、キンマ塗りの漆器の器、日本の小物のモビール、暖簾、などは、とてもとても、喜ばれました。
また、事前に手紙で私の趣味がピアノ演奏だ、と言っていたのでしたが、そのホストファミリーにはピアノがなかったのですが、隣の家(ネイバー)にグランドピアノがあることまで手配してくれていました。
が、ただし、隣の家(ネイバー)が、2マイル〔約3.3キロメートル〕も離れているとのことでしたので、またまた、呆れましたが、トムが車で送ってくれるとのことでした。
13歳のトムはドライバーとして素晴らしかったので、アメリカの法律に疎い私は、13歳でもアメリカでは運転出来るのだ、と思っていました(笑)。
掲載写真は、順に、シアトル郊外にそびえる、「Mt.Rainier (マウント レーニア)」(標高・4392m)〔連れて行ってくれた時、私は生まれて初めて、山頂から流れてくる、美しい川の水をそのまま飲みました。〕、シアトル市の中心のランドマークタワーの、「スペースニードル」〔この周囲は世界中の食物を食べられる、フードコート、でした。もちろん、日本の握り寿司もありました。〕、です。

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タグ :ホームステイの思い出USAのこと