2012年04月01日
桜の時期の母の思い出

桜の時期になると、桜の大好きだった母のことを思い出します。
介護していた晩年の母は、肝硬変の末期症状だったのですが、ひどい骨粗鬆症だったので、年に1回程度は出歩けたものの、ほとんどは、出歩くことが困難でした。
でも、その点では、春、桜が満開になる頃、私の住む高松市西宝町は、桜の名所で、自宅の窓から見える西宝寺の山は桜ばかりなので、ピンク一色になりますので、母の介護ベッドを窓際に持ってきたり、暖かい日にはベランダに出せば、お花見が出来たので、よかったですね。
この時期、母が絶対に食べたがったのは、「丸山製麺所」のうどんで作った讃岐うどんの、かけうどんに、春菊と竹の子の天麩羅を載せたもの、小鉢のアサリの入ったワケギ和え、竹の子の木の芽和え、鰆の箱寿司、と、メカブのお吸い物、でした。そして食後には、「ふくろ屋」の『桜餅』と『うぐいす餅』を、「かおり園」の玉露で食べないといけませんでした。
まあ、人間は、年取ると、自制心がなくなってわがままになるのですが、母は、老舗旅館の女将でしたので、食べ物にはうるさかったので苦労しましたけど、これらを全て準備して、ベランダから満開の桜を見ながら食べたときは、さすがに、満足していましたね。
「お母さん、栗林公園にお花見に行ったって、これだけのものはなかなかお弁当では食べられんけんよかったやろ。」
と言うと、目を細めて喜んでいました。しかし、食事とお花見の後には、私の演奏する、自作のピアノ小品の「たき火」と、ショパンの「バルカローレ」と「幻想即興曲」、シューマンの「子供の情景」を聴きたい、と言うので、後片付けもできなくて、急いで、ピアノのある部屋に連れて行って聴かせたものです。
しかも、やっと、お昼ご飯が終わって眠りにつく前に、「克彦、晩御飯は、鯵の三杯酢とハマグリの潮汁にしてぇた。」と言うので、さすがに、私もクタクタだったので、
「ほんだら、何か食べに行こうで。」と言うと、「北斗」のしゃぶしゃぶが食べたい、と言うので、レインボーロードの「北斗」まで、私の車に乗せてつれてゆきました。
しかし、少しでも揺れるといけないので、時速20キロ以下で走らないといけないので大変でした。
母は、「北斗」の板前さんが気に入っていました。絶対に特上のしゃぶしゃぶコースを頼むのですが、そのお通しについている、汲み上げ自家製豆腐の冷奴と、本シメジとアサリの酢味噌和えが気に入っていました。
「克彦の今日の木の芽和えは美味しかったけど、こんな美味しいお豆腐は作れんでしょうが。」
などと言うのです。豆腐を自宅で作るなんてやったこともないし出来ないことはわかっているはずなのですが、ここで怒ってはいけないのですよ。介護の基本は、アクティブリスニングで、ひたすら聞いてあげることなのですから。
「ほーなー。ほんだら、また、お豆腐の作り方勉強しとくの。」
「いいや、忙しいけんかんまんかんまん。ここに食べに来たらええんやけん。ほんだけど、今の春先の時期は、『木の芽(きのめどき)』言うて、体の調子が悪うなることが多いけん、しっかり食べないかんのや。今日は、克彦が木野目和え作ってくれたけん、それを思い出してよかったわ。有難うの。」
母が一緒に「北斗」に来店すると、必ず、店長の小川さんが応対してくださいました。母がお茶が大好きなので、最初は、お煎茶なのですが、食後は、ほうじ茶を出してくれましたので、母はとても気に入っていて、
「ほんまに、ここの店長は若いのに、ええ子や。」と言っていましたし、母は草月流の師範でしたので、ここの畳の席の床の間に飾っているお花の生け方が気に入っていました。
今の時期になるとそういうことも思い出しますが、今でも母は私の心の中に生きていると確信しています。
本当に、高松にUターンして、母を介護させていただいてよかったと思っています。
掲載写真は、生前の母とよく一緒に行った、栗林公園のお茶室「日暮亭」で一緒にお抹茶をいただいている時の写真です。
Posted by 岡田克彦 at 12:16│Comments(0)
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