2011年03月26日

『個人の尊厳>表現の自由』

『個人の尊厳>表現の自由』



今回は、人間として生きるにあたって、ごくあたり前の鉄則の標記の不等式のことを書きたいと思います。



こういうウェブ上で日記を書いて、人と人が出会うことがこの先も増えてゆくんだろうな、と感じていますけど、この不等式が逆転している人が生息していることが、ウェブ上のコミュニケーションの全ての弊害になっているようですね。



SNSに入って3年くらいになりますけど、「リンク先は会ったことのある人だけ」と書いて広がりを拒否している人もいますし、本名、住所、携帯電話番号等をご案内しているぼくに、「そんな危ないことはやめた方がいいですよ。」と注意くださる方もいらっしゃいます。



きっと、そういう人達は、過去に、ウェブ上で嫌な思いをされたことがあるのだろうな、って感じるたびに、どうして、人間は、わずか100年前後生きているだけのちっぽけな存在なのに、そんな風に憎しみあったり、お互いの足を引っ張っぱり合ったりするんだろうな、っていつも感じてしまいます



『表現の自由』って書くと、全てが許される大義名分のように読めますけど、これは、つきつめれば、エゴイズムという、人間の煩悩の一つでしかないのです。もちろん、自己表現をしたくても出来なかった時代が、差別が日常的だった、民主主義社会になる前の時代にあったという歴史的事実がありますので、『表現の自由』はとても大切なことです。



しかしですね、『個人の尊厳』というものを凌駕するほど大切なことではない点を忘れてはならないと思うのです、ぼくは。



『表現の自由』を声高に主張して、自己表現する人達は、まず第一に、この世で生きている人間の数だけ個性がありますから、『表現の自由』のもとに「自己表現」をする場合でも、それを受け取る人たちにも『表現の自由』があるんだ、ということ、自分が自己表現したい気持ちに対するものと同じだけの敬意をもって、他人が自己表現したい気持ちを思いやるという大前提に立脚していないといけない、ということです。この前提を崩して『表現の自由』という大義名分のもとに「自己表現」する人達は、ぼくに言わせれば、ただ、煩悩に振り回されているだけの、気の毒な生物だと思います。



『個人の尊厳』は全ての生きる人間が当然に持っているのですから、これを汚すような表現は絶対に許されないのです。



匿名の掲示板やSNSに見られる、ハンドルネームがなかったらコミュニケート出来ないウェブ上の状況は、実に嘆かわしいことです。なぜなら、ハンドルネームのようなものは、『表現の自由』によって脅かされるかもしれない自分の『個人の尊厳』をガードする、防波堤に過ぎないからです。



万物の霊長たる人類が、防波堤がないと生きてゆけないとは、何と情無い懐疑心に満ちた殺伐とした世界だろう、ってぼくは思っています。



ウェブに参画する全ての人類が、『個人の尊厳>表現の自由』という、鉄則の不等式を認識していれば、そのようなものは一切無用なのです。



掲載写真は、先日いただいた、近所の高松市鶴市町の「つるいち」の『讃岐豚しゃぶ白菜うどん』です。とても暖まる素晴らしいうどんですね。








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