2014年05月21日
福井地裁の判決文に思うこと


福井地裁の、大飯原発3号機、4号機運転差し止め 判決文の、以下のような、「はじめに」は、久しぶりに、人間らしい、まともなモラルのある内容でしたね。
福井地裁、大飯原発3号機、4号機運転差し止め 判決文より・・・・・はじめに・・・・・「ひとたび深刻な事故が起これば多くの人の生命、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事業に関わる組織には、その被害の大きさ、程度に応じた安全性と高度の信頼性が求められて然るべきである。このことは、当然の社会的要請であるとともに、生存を基礎とする人格権が公法、私法を間わず、すべての法分野において、最高の価値を持つとされている以上、本件訴訟においてもよって立つべき解釈上の指針である。個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。したがって、この人格権とりわけ生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを請求できることになる。人格権は各個人に由来するものであるが、その侵害形態が多数人の人格権を同時に侵害する性質を有するとき、その差止めの要請が強く働くのは理の当然である。」
「人格権」よりも、「金儲け権」「物欲権」が勝っている昨今の日本の風潮を作ってしまったのは、いったい誰なのでしょう。なんて考えていると、デモクラシーの罠に陥ってしまった、日本の風土を元に戻さないといけないでしょうね。
「デモクラシーの罠」とは、「平等と同一の混同」のことです。
「あなたと私は平等だけど、同一ではない。」という、当然の原点に立てば、全く問題ないのですが、平等の拡大解釈が、同一にまで及んでいる現世は、本当にひどいものですね。
まあ、このあたりの馬鹿げたアンモラルな発想の原点は、昔の「日教組」あたりの主要メンバーの考えていたことなのです。
一度、電気はなくしてしまった方がよいでしょう。その結果生き残れない人達は、自然淘汰されれば、「金儲け権」「物欲権」の塊だけの物体は一掃出来るような気がしています(笑)。
J.S.バッハもモーツァルトもショパンも、電気のない中で、傑作作品を残したのです。ここをきちんと認識しているアーティストが本物なのです。偽者はいらないのですよ。
掲載写真は、判決後、プラカードを掲げて、福井地裁前で喜ぶ皆様です。

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Posted by 岡田克彦 at 23:50│Comments(0)
│拝金主義撲滅