2014年01月05日

2014年を迎えて

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有島重武氏





年が明け、3ヶ日も終わりました。



年が明けて、何がめでたいのかな、って、東京にいた頃は、私は毎年思っていたのですが、たぶん、毎年毎年、長く生きたことを感謝していたのだろうな、と思う今日この頃です。



しかし、この考え方は、母の逝去を期に、変わりました。



高松の私の実家は、先祖代々、浄土真宗西本願寺派でしたので、母の生前からの希望通りに、親鸞聖人のそばの、大谷廟に分骨し、東京にいた頃購入した、横浜の日吉に購入した、墓地に納骨しました。



高松市の斎場の方の手違いで、骨壷は二つでいい、と言っていたのでしたが、三つも作ってしまったのでした。



で、私は困ったので、旦那寺の、仏生山の円光寺さんに相談したところ、仏壇の横に、遺骨を祭ってもいいとのことでしたので、今も、自宅に飾っています。



ところで、私は、附属高松中学校頃から、高松高校時代にかけて、歴史が大好きだったので、平安仏教や鎌倉仏教までいろいろな宗派の教えを勉強しました。



この中で、私が最初にオミットしたのは、禅宗系の、臨済宗や曹洞宗などでした。確かに、曹洞宗の永平寺にはお参りに行って、精進料理をいただきました。



が、坐禅を組むなどの、小乗仏教ならではの修行を毎日続けることは、日常的に無理な時代になろうとしていたので、教えはとても共感できましたが、実行できないものはどうしようもないと思いました。



ところで、浄土真宗西本願寺派は、昔から、高松の実家で信仰していたものなので、私自身の意思で信仰していたわけではありませんでした。



もちろん、蓮如聖人の「白骨の御文」などは、名文ですし、仏教の持つ、無常感を表出したものですから、私は、文学的に好きでした。



しかし、極楽浄土だけを祈り、生きているうちの善行を祈らない点だけが、私は納得できませんでした。



これを解消してくれたのが、日蓮の始めた「日蓮宗」でした。法華経(つまり、『妙法蓮華経』)の教えでした。



つまり、「日蓮宗」は、この世をイキイキと生きるための仏教、だったのです。



弘法大師が始めた、平安仏教の「真言宗」も、現世を考えたものでしたが、「現世利益」〔げんぜりやく〕はあくまでも、自分の利益を守るというものでしたから、自分の生き方を考えるものではなかったのです。



お金などの利益は、正しい生き方をしていれば、後から自然発生するものなのです。最初から、お金が欲しい、などという、下劣な煩悩に惑わされてはいけないことなどは、あたり前のことですね。



現世利益の中でも、学業成就、厄落とし、家内安全、などはいいのですが、空海が仕えた貴族の対抗勢力の貴族を呪い殺すようなものは、仏の教えに背くものだろうと私は考えています。



さて、私が、生まれて初めて、法華経(『妙法蓮華経』)に即して生きている方と出会ったのは、1983年の夏、日本アマチュア演奏家協会・志賀高原音楽祭「ピアノと遊ぶ会」に出演したい、と、会長の私の住んでいた、住友信託銀行小金井寮に電話を下さって出会った、作曲家・兼・ピアニストの、有島重武さんでした。



志賀高原音楽祭に、有島様は、黒塗りの車で、ファゴットの上手い秘書と一緒にいらっしゃいました。



そのとき初めて、有島様がいつも東京六区でトップ当選している衆議院議員でいらっしゃることがわかりました。



J.S.バッハの「パルティータ 2番」を演奏されたのですが、素晴らしかったので、私はお聞きしました。



「有島さん、誰にピアノを教わったのですか。」



「J.S.バッハについては、ヨーロッパ遊学中に、シュトックハウゼン先生に教わりました。」



「・・・・・。本当ですか、信じられないや。」



会場にいた、トップアマチュアピアニスト、トップアマチュア弦楽器奏者、芸大、桐朋、武蔵野、国立音大のピアノ科の生徒は、みんな愕然としたものでした。



この音楽祭の時に、有島様は、アマチュアヴァイオリン奏者のリクエストで、ベートーヴェンの大公トリオを初見で見事に演奏されました。



そのあと、会員全員の要望で、1991年に、「ピアノと遊ぶ会」が「日本アマチュア演奏家協会」との共催で、チャリティコンサートを行った時、衆議院議員ご勇退後の、有島様が出演され、ドビュッシーの作品を演奏されました。



このチャリティコンサートの公園名義取得で外務省の後援をいただく時には、全くわからなかった私を有島様は議員当時の経験でバックアップくださいました。が、その理由は、私の作曲したピアノ曲が気に入っておられたからなのです。



彼は、一度たりとも、政治家カラーを私達の前では出しませんでしたので、公明党の議員でいらっしゃったことすら、私は全く知らなかったのです。〔このあたりのことは、下記エッセイに詳しく書いていますので、是非、ご一読下さい。〕



『世界の子供達のためのチャリティ受難曲』



あのチャリティコンサートから、22年経過しました。私は、1994年に母の介護のため高松にUターンし、2006年に母を看取りました。



2007年に作曲し、香川県庁主催の栗林公園庭園コンサートで初演し、香川県庁の依頼でCDも出した、母の追悼のためのピアノ組曲「記憶の底の栗林公園」OP.111 を私のホームページで聴いて、CDを購入したいと、いきなり私の家にいらっしゃったのが、高松市議会議員のN氏でした。



以来、N氏とは、フェスイスブックでいろいろやりとりをしていましたが、一昨年の2012年から、高松市林町の「カフェクサカ」で毎月ライブをやっていて、昨年であった、当時27歳だった山本君と出会ってコラボをやっていることを知って、N氏は、聴きにいらしてくださったばかりか、とても寒い日だったので、車で私を会場まで送ってくださったのです。



母の七回忌も終わり、一段落した私は、この先の余命いくばくもない自分の一人生きてゆく時の信仰について、いろいろと考えていましたが、N氏が、公明党の議員でしたので、有島さんとの共通点、つまり、前向きに生きる姿に感服していたので、私の正直な法華経の教えを求めていることをお話しました。



こうして、私は、とても幸せな出会い〔有島重武氏とN氏、という音楽関係者〕で、創価学会に入り、日蓮宗を信仰することにしました。



信仰を開始するプロセスは皆様様々でしょう。が、私は、自分で勉強して求めてからでないと、自分の信仰は、絶対に決めません。今回は実際に私が人生で、音楽関係で出会った二人の創価学会会員の生き方に惚れて決めましたので、それでよいのです。



有島重武氏の作品はいくつか知っておりましたが、彼が、懇意にされていた、創価学会名誉会長の池田氏の依頼で作曲した数曲を拝見し、2006年に他界された有島様のことを懐かしく思い出し、涙が止まりませんでした。音列の発想などは、作曲家個々人独特のものですから、すぐに、有島氏の作品だとわかりました。



2014年1月2日に、高松市勅使町の池田記念会館での創価学会の集まりに出席し、ご本尊をいただき、N氏が整えて下さった自宅の飾り台に据え付けて、毎朝、お祈りしています。



N氏は東京のご出身でしたので、19年間東京にいた私とはお話も合います。また、N氏の所属する、入会した御殿支部の会場には、ピアノがあるそうなので、皆様のリクエストに答えて演奏できるという、本当に素敵な信仰の日々を送れるとは、今年は最高のスタートになりました。



深く深く、感謝しています。



掲載写真は、1991年当時の、創価学会・音楽隊・初代隊長の、有島重武氏、です。






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